稲作農業技術の変遷(収穫作業)

九州の稲作農業技術は、昭和30年代から急速に農業機械の開発が競って行われ各農家への普及が進み飛躍的に農作業の省力化・1戸当たり農業経営の規模拡大につながっていった。

稲作農業技術の耕運作業、田植作業が進むと当然収穫作業も併せて機械化の流れが急速に進んだ。

これは当然のことであり、耕運・田植え作業が省力化され規模拡大すれば収穫作業も必然的にその規模に見合う能力の作業ができなければ収穫ができないのである。

~昭和30年代

昭和30年代までは人による手刈りを行い、結束し掛け干しで自然乾燥を行い、脱穀して籾にして収穫が完了であった。

 

昭和40年~昭和初期

昭和40年~昭和初期にはバインダー(歩行型で稲を刈り取り束ねる機械)の機械化がすすみ刈り取り作業の省力化が図られた。掛け干しによる自然乾燥、脱穀はほとんど従来どおりの作業内容であった。

昭和50年代~

昭和50年代からは、さらに収穫作業機械が改良され乗用型コンバイン(稲を刈り取り脱穀する機械)の普及へと進んだ。このコンバインはすぐれもので、稲穂が立ったままの状態で刈り取り、脱穀作業までの作業を行うもので従来の二つの作業工程を同時に行うものである。

更に乗用型であり、操作する人は機械に乗り作業するものである。当時の農家は農業機械の進歩に驚くばかりであった。

ただコンバイン収穫作業は、稲穂が立ったままの状態で刈り取り、脱穀するので籾の水分含有量がとても高い。このため、収穫後は速やかに乾燥する必要がある。このことから、コンバインを導入する農家は併せて乾燥機の導入も行わなければならなかった。

コンバインでの稲の収穫作業は、現在も続いているが大型化したことや高性能の農業機械の普及と言うことで、脱穀作業中に収穫籾の水分計測できるようなコンバインも普及している。

稲作農業技術の変遷(田植編)

九州の稲作農業技術の耕運作業は、牛耕から耕運機、トラクターとえと機械化が進んでいった。

それに伴い、稲作農業技術の田植作業も人力から機械化へと進んでいった。昭和30年代までは、人による手植えで田植えを行っていた。これが昭和40年代になると歩行型の田植え機が開発され普及し始めた。

昭和60年代には、さらに田植え機の改良が進み乗用型の田植え機が普及し、現在に至っている。

~昭和30年代

昭和30年代までは、人力による農業が主流であった。田植えもその一つで、多くの人々(家族・親戚・隣人)で農繁期(稲の田植え・刈り取り作業など)に対応していた。親戚や隣人は結衣といい 田植えや屋根替え、味噌搗(みそつ)きなど、一時に多くの労働力を要する仕事をする際に、お互いに人手を貸し合うことが一般的であった。

水稲の手植え

 

昭和40年代~昭和50年代

昭和40年代からは農業技術が進歩し、歩行型の田植え機が普及した。田植え機を歩行しながら操作し田植えを行う機械である。

この機械を利用するには苗作りを変更する必要があった。手植え時代は、水田に畝を作りそれに籾を播いて育苗し苗作りを行っていた。

しかし、歩行型の田植え機を利用するには田植え機に合った苗作りを行う必要があった。現在も同じであるが、規格の決まった箱に籾を播いて苗作りを行うものである。(箱苗と言う。)

規格の決まった箱苗を田植え機にセットすると田植え機がそれを1株づつはさんで、植えていくものである。

この田植え機により、1日で田植えをする能率が飛躍的に向上した。ただ、この田植え機も、導入できる農家とできない農家の当時格差があった。

導入できない農家は、手植えによる田植えがしばらくは続いた。

 

昭和60年代~

昭和60年代になると、更に農業技術が進歩し田植え機も大型になり、歩行型から乗用型に変わっていった。近年は、省力化が進んで元肥も田植えと同時に施肥する田植え機で側条施肥機が付いた田植え機が主流である。

これは、肥料を田植えと同時に施肥するもので、従来は田植え前の本代掻き時に人力により施肥していた作業をしなくても良くなった。一つの作業がなくなるので水稲栽培の省力化である。

九州の水稲栽培も、農業技術の進歩により省力化が進み、経営規模の拡大による専業農家の増加にもつながっていった。